World Horseback Archery Federation

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騎射とは


騎射

“騎射”とは馬上で行なう弓射のことで、徒歩立ちで弓射を行なう“歩射”に対する語です。
英語ではHorseback Archery、Archery on Horseback、Mounted Archery、韓国語では騎射(キサ)と呼ばれています。
江戸時代中期の有職故実家・伊勢貞丈が記した『貞丈雑記』には、

「騎射と云うは歩射に対して云う也。すべて馬上にて射る流鏑馬・笠懸・犬追物などの惣名也。何にても馬上にて射るを云う也」

とあり、古事類苑・武技部では、

「騎射ウマユミト訓ズ、音讀シテ、キシヤト云フ。騎シテ射ルナリ、字或ハ馬射ニ作ル、獵騎、馳射ニ作レルモ騎射ノ事ナルベシ」

と解説されています。


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弓矢の発生と射法の分類


騎馬民族の射法・モンゴリアンフォームとは       


人類史上、革新的発明であった弓矢もその起源は定かではありません。
通説では旧石器時代後期(紀元前1万4~5千年)頃とされ、日本でも縄文時代の草創期(紀元前5~6千年)頃には弓矢が使用されていたとみられます。これらはいずれも遺物として残りやすい石鏃が発掘されたことによる推定年代です。
やがて世界各地に広がった弓矢は、狩猟や武技などといった、ほぼ同じ実用性を持ちながらも、使用環境などの違いで形態や素材、射法などに特徴がみられるようになります。
そして現在では、民俗学者マックス・エーンス氏によりその射法が5種類に分類されており、その中で代表的なものとして下記の3種類があげられます。

◇ Mongolian form : 蒙古型射法
  矢を弓の右側に置き、拇で弦を引く。
  モンゴル、中国、韓国、日本などに見られる射法。


◇ Mediterranean form : 地中海型射法
  矢を弓の左側に置き、右手の人差指、中指、薬指で弦を引く。
  地中海周辺を中心にエジプト、アッシリア、古代ギリシャなどに広まった射法。


◇ Pinch : 原始的射法
  自然発生的な、いわゆるつまみ型といわれるもの。
  拇と人差指で矢筈をつまんで弦を引く。


この中で騎射に最も適した射法が、Mongolian formです。
その理由は、矢を弓の右側に置くことで馬上でも矢を素早く番えることができ、人差指で矢を支えることにより、上下、左右、前後と、多方向への射撃を可能とします。
また、馬上で扱いやすい中短弓は、引き絞った際に引き手の指にかかる弦の角度がきつくなるため、拇だけの取りかけが適しています。一方、Mediterranean formは現在のアーチェリー競技の射法としても知られ、Pinchは強弓を引くのには適さないものとされています。

弓矢の発生からまもなく、弓射の技術と乗馬の技術が結実し、馬上から弓を射る騎射の技術が、ユーラシア大陸の騎馬遊牧民族によって発達していきます。


参考文献  『現代弓道講座』 雄山閣出版

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ユーラシア大陸

スキタイの騎射

スキタイは、紀元前7世紀~前3世紀にかけて南シベリアから黒海沿岸に至る、広大なステップ地帯に活躍した、最古の騎馬遊牧民族のひとつです。彼らの卓越した騎射術は、近隣諸国から恐れられていたといわれています。

一方で、芸術性に優れた高度な金細工技術を持ち、鹿や猛禽類などの動物意匠の装飾品を好んで用いていたことにも大きな特徴があります。
紀元前5世紀にギリシャの歴史家ヘロドトスが記した「歴史」には、そうしたスキタイ人の風習や性質が詳しく記されています。
「歴史」には、スキタイ人の発祥について三つの説が記されていて、一つめは、ゼウス神とボリュステネス河(現在のドニエプル河)の娘との間に生まれたタルギタオスという男が祖であるという説、二つめは、ヘラクレスがヒュライアという土地で蛇女との間にもうけた三子の末子スキュテスが祖であるという説、そして三つめは、アジアの遊牧民であったスキタイ人が、マッサゲタイ人に攻められ、アラクセス河を渡りキンメリア人の居住する地域を占領したあと、コーカサス山脈を右手にキンメリア人を追いつつ、メディアに侵入して勢力を拡大していったという説です。ヘロドトス自身も、この三つめの説を最も信頼できるものと記しています。
信憑性は別として、彼らの祖をヘラクレスと蛇女の末子とする説には、ヘラクレスが、「生まれてくる子が成人したら、自分の弓の引き方と帯の結び方を受け継がせるように」と蛇女に語る場面があり、このことは騎射に長けたスキタイ人を象徴する逸話としてとても興味深いものです。
その時ヘラクレスが伝えたという、弓の引き方と帯の結び方については詳らかではありませんが、「歴史」によれば「スキュティア人の弓の引き方は、一般の者と違い、矢を胸でなく肩のあたりに引いたという」とあります。
さらにヘロドトスは、残虐さで名を馳せていたスキタイ人が唯一、他の民族より優れているところを次のように述べています。
(ヘロドトス 松平千秋 筑摩書房より抜粋)

「彼らを攻撃する者は一人として逃れ帰ることができず、また彼らが敵に発見されまいとすれば、誰も彼らを補足することができないようにする方法を編み出したことである。それも当然で、町も要塞も築いておらず、その一人残らずが家を運んでは移動していく騎馬の弓使いで、生活は農耕によらず家畜に頼り、住む家は獣に曳かせる車である。そのような民族にどうして戦って勝つことはもとより、接触することができよう」



匈奴の騎射

匈奴は、紀元前4世紀~後2世紀にかけてモンゴル高原に現れ、中国北方を席巻した騎馬遊牧民族です。中国戦国時代の中期、紀元前318年に司馬遷の記した「史記」匈奴列伝に初めてその名が登場します。
「史記」匈奴列伝には、「(匈奴は)子供でも羊に乗り、弓を引いて鳥や鼠を射ることができる。少しく成長すれば狐や兎を射て食用とする。士はみな力強く弓を引くことができ、すべて甲冑をつけて騎士となる。その風俗は、平和の時には家畜にしたがって移動し、鳥や獣を射猟して生業とするので、一旦急変あるときは、人々は功戦になれており、侵掠功伐をする。これが天性である。」とあり、騎射に巧みな極めて好戦的な民族であったことがわかります。
また、彼らの騎射による狩猟は、軍事演習を兼ねるといった側面をもち、そこで培われた技術は、有事には対人戦に適用されました。そうした幼いころから騎射に慣れていた騎兵と、資質の優れた馬で構成された騎馬軍団との戦いでは、大兵力を持つ奏、漢の両帝国も苦戦を強いられ、軍備増強や防備の長城建設のため国営も疲弊し、それが衰退の一因となったともいわれています。
やがて、鮮卑、丁零によってモンゴル高原を追われることになった匈奴は、西方へ移動しながら、キルギス草原に留まり、中央アジアの覇権を握ったとも伝えられていますが、その後の消息ははっきりしません。
一説には、追われて西方へ移動する過程でフン族とよび名が変わったともいわれ、このことから匈奴とフン族は同族であるという説が提唱されています。しかし、匈奴とフン族が同族か否かは今のところ確実な証拠に欠け、定かではありません。
そのフン族がヴォルガ河を越えて東ヨーロッパに侵入したとき、そこに居住していたゲルマン諸族が西方に押し出されるように移動しました。これが現在のヨーロッパ世界を構成するもととなった、民族大移動の発端といわれています。


ペルシャの騎射

紀元前2世紀後半、西はシリア、東はアフガニスタンに及ぶ広大な地域はパルティア王国の支配地でした。
パルティア民族は幼い頃から弓馬を嗜み、その技術の高さは周辺民族からも称賛されていました。
しかし紀元前53年、西アジアに進出しようとしたローマ帝国と衝突します。有名なカルラエの戦いです。

激しい戦闘の末、名将スレーン率いるパルティア軍はローマ帝国軍を敗走させます。
パルティア軍の弓騎兵は重騎兵とよく連携し、数で大きく勝る歩兵主力のローマ軍を圧倒したといわれています。卓越した騎馬戦法による勝利です。

そして、その騎馬戦法の中に、特に注目される騎射術がありました。通称パルティアン・ショットと呼ばれる、疾走する馬上から後ろ向きに矢を射る射法です。パルティアの弓騎兵は、後ろから追撃してくる敵に対しても正確に矢を射かけることができたのです。
実はこの射法は、パルティアより古くスキタイなどの騎馬民族で既に用いられていましたが、カルラエの戦いでこの射法に直接触れたローマ軍によってその名が付けられたため、後にヨーロッパ中に知られていくことになります。
またこの射法は、ササン朝ペルシア(224~651年)の時代になると、銀製皿など美術品のモチーフとして多く図案化され、その流行はヨーロッパから中央アジアを経て、やがて日本にも伝わりました。それらは現在、奈良の正倉院にある緑地狩猟文錦や木画紫檀琵琶・銀壺、また法隆寺の四騎獅子狩文錦などに見ることができます。

参考文献  松平千秋 『ヘロドトス』  筑摩書房
       『史記』 筑摩書房

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東アジア


高句麗の騎射

1976
年、北朝鮮・大安市で徳興里壁画古墳が発見されました。
この古墳は、高句麗時代(~668年)の408年に造られたもので、その墓誌には、この古墳の被葬者は鎮という人物で、信都(現在の博川、雲田地方)の出身であり、建威将軍、国少大兄、左将軍、龍驤将軍、遼東大守、使持節東夷校尉、幽州刺史といった官職を歴任したあと、77歳で没し、永楽18年(408年)12月25日、ここに葬られたと記されていました。
墓室は石室で、羨道、前室、玄室で構成され、それぞれ壁の漆喰塗りの上に人物風景画が描かれています。なかでも注目されるのは、玄室西壁に馬射戯という騎射競技の様子が描かれていたことです。
それは、馬上の2人の射手が、的串に立てられた5つの四角い的を射ているところで、先行の射手は振向きながら的を狙い、その後ろに続く射手は的を前方に狙っています。5つの的のうち、2つは既に射落とされたようであり、また、馬場の傍らには馬上の射手が2騎控え、その間には記録係と検見役(審判)とみられる3人の人物が描かれています。
実はこの馬射戯図は、騎射競技を描いた最古のものともいわれ、このころ既に騎射が競技として行なわれていたことを伝えています。的は四角く、馬場の埒際5箇所に的串に挟んで設置され、それを馬上の射手が順番に射ていき、その的中を記録する者がいるという、ざっとみて、こうした様式は日本の騎射、流鏑馬のルーツといえるものではないでしょうか。

もともと、高句麗の武人達は弓術と馬術をよく嗜み、騎射による狩猟も盛んに行なわれていました。春と秋には国を挙げての大規模な狩猟競技会が催され、特に秋の「国中大会」はその代表的なものとして多くの武人達が参加し、功名を争ったといわれています。そうした狩猟の様子が、徳興里壁画古墳、舞踊塚(4世紀末)、薬水里壁画古墳(5世紀初)などの狩猟図に描かれています。
また、高句麗古墳では被葬者と生前関わりの深かったものが壁画の題材とされ、これは被葬者が死後も生前と同じように暮らしたいと強く願っていたため、といわれています。おそらく、この古墳の主である鎮という人物も、生前弓矢を携え、馬を駆っては狩猟に明け暮れ、また馬射戯の名手としてその名を馳せていたのでしょう。
しかし残念ながら、そのことを伝える資料は見つかっていません。


参考文献  『高句麗文化展図録』 高句麗文化展実行委員会


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モンゴル

中世モンゴル軍の騎射

モンゴル弓騎兵の弓射技術の優秀さは古くから知られていますが、
直接モンゴル軍に侵略された中世ヨーロッパの地域では、その傷痕が今も残されており、当時の衝撃の強さを物語っています。そのなかでも特にモンゴル軍の弓射技術を示す印象的な出来事がありました。

1236年に開始されたパドゥ率いるモンゴル軍の東ヨーロッパ遠征は、やがてビスワ川を越えて1241年にはポーランド王国ピャスト朝の首都、クラクフに迫ります。そして復活祭直前の日曜日のこと、クラクフの聖マリア教会の塔から突然、モンゴル軍の襲来を知らせる警報ラッパが鳴り響きました。
しかし次の瞬間、モンゴル軍の放った矢がラッパ奏者の喉元を貫いたと伝えられています。
それ以来聖マリア教会では、この770年前の、街の人々に危険を知らせたラッパ奏者に哀悼の意を表し、今でも毎正を告げるトランペットの演奏を途中までしか演奏しません。
そのラッパ奏者には気の毒なことでしたが、これは中世ヨーロッパにおける、モンゴル軍の弓射技術の脅威が、痕跡となったことを示す一例です。
ところで、その当時のモンゴル軍の弓矢やその技術はどのようなものだったのでしょうか。
1245~47年の間、第三代グュク汗治世のモンゴルを旅したジョン・ド・ピアノ・カルビニ修道士の記録によれば、「モンゴル人は、2張の弓と、30本の矢が入った矢筒を2、3個備え、矢は2種類あり、小型で鋭利な鏃を装着した長距離用と重く幅広の鏃を装着した近距離用と区別し携帯していた」といわれています。しかし、当時の鏃の遺品には他にも様々な形態の物があることから、矢の使い分けはより多彩であったことが推察できます。
またカルピニは、「弓の引き重量は166ポンド(約75kg)あまりで、その殺傷できる有効射程距離は200-300ヤード(約187-274m)に達した」と記しています。
しかし、さらに驚くべきことに、モンゴル語最古の記録とされ、現在エルミタージュ美術館に収められているチンギス・ハン碑文には、チンギス・ハンの甥インスケが、335アルダ(約500m)を射抜いたことが刻まれていたのです。
もしそれが真実であれば、まさに人間技を越えた弓射技術といえます。前述のラッパ奏者も、聖マリア教会の塔からモンゴル軍の襲来を知らせていたという状況からすれば、恐らくはこうした長距離から狙撃されたと思われます。
また、モンゴル軍の弓を現代の基準と比較すると、その有効射程距離は別として、現在のオリンピックのアーチェリー競技用の弓の引き重量が、大体40~50ポンド(約18~23kg)であるのに対し、モンゴル軍の弓は約75Kgですから、約3-4倍になります。こうした強弓を馬上で、しかも実戦という過酷な状況下で巧みに扱うことができた騎射技術は、やはり歴史に痕跡を残すのに充分であったといえます。


参考文献  井上邦子 『モンゴル国の伝統スポーツ』 叢文社       
      S・R・ターンブル 『モンゴル軍』 新紀元社

      ナショナルジオグラフィック 1997年 2月号 続モンゴル帝国

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日本

日本の騎射

わが国における騎射の文献上の初見は、「日本書記」の雄略天皇(720年)の条【弓を彎き、馬を驟せ、市辺押磐皇子を射殺したまひつ】の記事とされ、さらに、天武天皇の時代には「長柄杜で馬的射」を行なったことが記されていることから、この頃には騎射が狩猟や武技だけでなく、儀礼として行なわれていたことが窺われます。

奈良時代には、唐の統治制度を手本とした「律令制」による弓騎兵の伝統に従い、兵士の採用条件として騎射に秀でていることが第一に求められていました。そして弓箭は武官を象徴する表識ともなりました。
平安時代以降、武士の台頭と共に騎射の技術は武士の必須として重視されるようになり、やがて戦術の変化や銃火器の導入により、騎射がその実用を失っても、弓馬は武門の精神的象徴として長く重んじられてきたのです。
そうした日本の騎射には、流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)・牛追物(うしおうもの)・犬追物(いぬおうもの)、また作物(つくりもの)といわれる、三三九(さんざんく)・八的(やつまと)・手挟(たばさみ)・乞垂(こいたれ)・引不引(ひくひかぬ)・脇細(わきぼそ)・四六三(しろくそう)、など数多くの形式があったとされています。しかし現在では、代表的な騎射の三つ物以外、その詳細は不明です。
騎射の三つ物とは、流鏑馬・笠懸・犬追物を総称していう名称ですが、それぞれ目的を区別すれば、流鏑馬は神事として、笠懸・犬追物は実戦の訓練や競技として行なわれてきたため、その様式や作法も異なります。
 
 
【流鏑馬】
 
流鏑馬(やぶさめ)は神事として、現在も日本の騎射を代表するものです。
その起源には諸説ありますが、朝廷で5月5日の節会に左右近衛府の官人により行なわれた騎射(うまゆみ)がその原型ともいわれています。
流鏑馬は、長さ二町(約218m)の馬場の両側に埒を結び、その間に設けられた三つの的を馬上から鏑矢で射るものです。文献上の初見は、藤原明衡の「新猿楽記」“中の君の夫”の記事とされています。
そして流鏑馬が盛行した鎌倉時代、源頼朝やその御家人達が、東国の武家政権下における流鏑馬の式法確立の為、当時既に詳らかざる藤原秀郷の弓馬故実を求めることに心を砕いていたことが、吾妻鏡などから伺えます。
藤原秀郷は、軍事貴族として近衛府官人の優れた弓馬故実を受け継いでおり、また代々鎮守府将軍であったことから、東国武士の台頭に伴い、彼らの武芸故実の祖として象徴的な存在でした。
そして秀郷流の真価は、囚人・諏訪盛澄の射芸によって裏付けられることになったのです。
 
『囚人・諏訪盛澄の射芸・吾妻鏡 文治三年八月十五日条』

「諏訪盛澄は秀郷流流鏑馬射法の熟達者であった。平家方に属して長年京都におり、城南寺の流鏑馬でその射芸を伝えていたが、源頼朝のもとへ参向することを延引していた為、頼朝の怒りを買うこととなり、以来囚人となっていた。そして死罪とされるところであったが、同時に秀郷流の奥儀を失うことに迷いを生じた頼朝は、その前に盛澄に流鏑馬の射手を務めさせて、その技量を確かめることにした。
盛澄は了承したが、与えられた馬は厩で一番の悪馬で、しかも舎人が密かに告げるところでは、「この馬は的の前で必ず右に馳せる」という悪癖を持つもので、極めて不利な条件であった。それでも盛澄はそれを乗りこなすと三つの的をすべて射抜き、続いて五寸の串に挟んだ三つの小土器をもすべて射抜いた。
しかし、それでも頼朝は納得せず、さらに「その五寸の串をも射よ」と命じた。さすがの盛澄も自分の運命もこれまでと思い、諏訪大明神に祈念して、狩俣を水平に捻じり回して射たところ、五寸の串すべて射切ることができた。これを観たすべての者が感動し、頼朝も快く赦免したという。」
 
 
【笠懸】
 
笠懸はもともと綾藺笠を的にしたことがその名の由来といわれ、のちに遠笠懸、小笠懸と区別されるようになり、他にも籤笠懸・百番笠懸・七夕笠懸・神事笠懸といった様式があります。
儀礼的な流鏑馬に対し、笠懸は犬追物と並んでより狩猟や実戦の訓練的色合いの濃いもので、特に平安~鎌倉時代にかけて盛んに行なわれてきました。当時の騎馬武士は騎射戦に対応した大鎧を着用していたため、一矢で射斃すためには急所である内兜(顔面)や、鎧の隙間などを狙う必要があり、相手がこちらを見ようとして顔を上げたり、振り返ったところを間髪入れず内兜に射込んだり、また、狩りで伏鳥など足元の獲物を射るための修練が目的であったといわれています。
笠懸の馬場は、直線一町(約109m)とし、その中にさぐりをつけ両側に埒を設けました。「さぐり」とは砂浜などで馬や犬などを走らせた足跡のことで、笠懸では走路のことをさす語です。そしてさぐりの本末には扇方といわれる馬を折返すための平地を設けました。
遠笠懸は、遠方にある標的を射るもので、的は、さぐりから5~10杖(約11.35m~22.7m)とし、的までやや傾斜をつけた矢道を設け、その両側に竹矢来を立てます。
小笠懸は、遠笠懸の後、馬を折返して馬場を逆に馳せ、今度は足元にある小さな標的を射るもので、的は四寸四方(約12cm)の薄板を竹串に挟み、埒際1杖(約2.30m)程のところに地上低く立てられます。
 
笠懸の起源には諸説ありますが、「定家朝臣記」【天喜五年(1057年)十二月三日途中紙幡河原に於いて、人々馬を馳す。次に頼俊の郎等を召し笠懸を射さしむ】とあるのを文献上の初見としています。
 
 
 【犬追物】
 
犬追物はその名の通り、生きた犬を標的とした特殊なもので、特に難易度の高いものでした。
射手は犬を追いながら、弓手・馬手・馬手切・押交などといった、あらゆる方向へ射る必要があり、そのため馬術にも高い技術が求められ、同時に、馬の資質も重要視され、犬追物用に調教されたものは高値で取引されていたようです。さらに、犬追物は作法にも厳しく、様々な規定があるほか、射手数を36騎、犬数は150疋を正式とした大掛かりなものでした。また、射手は的中しても犬を殺さないよう、各々の弓の強さに合わせた専用の蟇目(ひきめ)を用いました。
江戸期には、有職故実の大家である伊勢貞丈が、犬追物の難しさを他の騎射と比べて次のように述べています。
【犬追物は騎射の為に甚だすぐれたる物なり、遠笠懸、小笠懸、流鏑馬なども、騎射なれ共、これらは竪に直に馬をはせて射る計なり。さればこれはなしやすし。犬追物の馬場は、広さ四方にて、竪にも横にも定めなく乗り、又犬の走り様に随いて、馬を早くもおそくも追ひて射るなり。射あてたる時に、俄かに馬をとどめて馬のあつかひ様あり。通例の乗方にては、叶ひがたし。其の上。弓にても様々法度ありて、むづかしき騎射なり】と評し、さらに的中の判定も厳しく定められていることから、【犬追物は、犬を射たる計りにては中りにならず。射やう、矢の放す所、法式に違えば、中りにならず。矢束を引き残せば、中りにならず。弓手を射ては、馬を馬手へ折り、馬手を射ては、馬を弓手へ折る法なるを、馬の折り様違えば、中りにならず。検見に矢所を問はれて、矢所を答違れば、中りにならず。縄きはより外へ走り出づる犬を、追ひて行く時、縄に添へて、馬を出さざれば、中りにならず。法式違ひたることあれば、犬に矢中りたるとも、中りにならざる事也。されば、犬追物はむづかしきなり】とも述べられています。
要するに、ただ犬を追って射当てるのではなく、作法に則り、充分に追い詰めてから蟇目を差し付けるようにして射るようにしなければならず、犬を遠い位置から射ることは、「さしわたして射る」といい、的中しても認められなかったようです。


            
参考文献  全譯 吾妻鏡(一) 新人物往来社

      現代弓道講座(3) 雄山閣出版
      貞丈雑記(3) 東洋文庫
      月刊 国立競技場 Vol.526
                  近藤好和 『弓矢と刀剣』 講談社選書メチエ